今日の午前中、Xが事務所まで来た。エレベーターから下りて、一番近いカウンターにいる先輩へまず声をかけた。
「うちの部署が、有給申請書の原本まで使っちゃったみたいで」
申請のための書類は、それぞれの部署に原本を置いて、必要になるたびにコピーして使う形になっている。その原本のデータは、うちの事務でしかアクセスできないフォルダの中だ。先輩は軽く咳ばらいをして、手元の書類をばさばさかき回した後に「──ちゃん、やってあげて」と言った。
「はい」
頷いて、フォルダにアクセスする。どうせ他にやることもない。この部署のいいところは、一日中ひまだという点だ。彼が、先輩のもとを離れてこちらにやって来る。カウンター越しに向かい合う形になった。私がキーボードをいじくりまわしていると、やや身を乗りだして、画面を覗き込むような仕草を大げさにやってみせる。かまって欲しくてやってるのだ。邪魔そうに手で払ったりなんかしたら、ご機嫌になってもっとじゃれついてくる。私は無視を決め込んだ。
「『正義と微笑』、読んだよ」
じゃれつくのを諦めて、彼がそう言った。私が前に勧めた小説だった。部署の中では、電話対応してる人がいる。その声を頭の片隅で拾い上げながら、彼に言葉を返した。静まり返った室内で雑談する図太さはない。
「良かったでしょ」
「ぜーんぜん」
どこか楽しげな言い方だった。
「私は主人公の男の子が好き」
「いないいない、あんな男」
私はデスクトップ内に表示された印刷ボタンを押す。
「ああいう男が創作で出てくるから、僕みたいなのが変に不潔に思われるんだよ」
不潔なのは、事実でしょ。私は内心そう呟いた。他の人の電話対応が終わった。部署内が静かになる。私も彼も、示し合わせたかのように同時に口を閉ざした。印刷した紙をコピー機まで取りに行く。カウンターまで戻って彼に差し出すと、受け取らないまま、こちらをじっと見つめてくる。なに?と目だけで彼に問いかけた。
彼くらいだ。こんな風に見つめ合っていて、肉親以外で気まずくならないのは。彼がどうしようもない男だと分かってるから、変に緊張しないのかもしれない。もしくは、黒く染まった片目の眼球が、オブジェでも見ているかのように錯覚させてくれるからか。
彼は小突くように肩を軽く押しながら「ほかの男と、仲良くしないでね」と冗談交じりに言った。しんとした部屋に響くかと思われたその声は、ちょうど背後でコピーを取り始めた人の音でうまい具合にかき消された。有給申請書を受け取ると、彼はさっさと行ってしまった。振り返ることもなく。
「──さん、見積りできてる?」
いえ、と答えて私はPCから振り返った。営業の男が後ろに立っている。
「急ぎでしたっけ?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃないんで、大丈夫なんだけど」
男は落ち着かなさそうにスーツのポケットに手を出し入れしたり、襟元を触ったりをしている。この人はいつもこんな風だ。
「なんですか」
「よく来てる男の子がいるでしょ」
「どの子ですかね」
若い男の子なんてそうそういないので、Xのことを指しているのだとすぐに分かったが、なんだか面倒ではぐらかした。
「”これ”の子だよ。これ」
男が、自分の片目を指で指したり囲ったりするジェスチャーをしてみせる。私はなんだかいやな気持ちになった。
「その子がどうかしましたか」
「あの子ね、あんまり仲良くしない方がいいよ」
「どうして」
「猫被ってるって有名だから」
知ってますよ、と言いたかった。逆に何故、知らないと思っていたのだろう。あんないい加減な子供だからこそ、相手してあげているようなものだというのに。私は「ありがとうございます」とだけ返しておいた。
数日後、エレベーター前でまたXと出くわした。にこやかに手を挙げてこちらに近寄ってくる。なにか企んでそうな笑顔だな、と思ったら、やはり何かしらの用があったらしい。開口一番「今度の歓迎会、参加する?」と聞いてきた。
「しない」
歓迎会というのは、このまえ中途で入ってきた職員がいるので、それのことだ。数日後に迫っている。歓迎会といっても、他の民間企業が定時後に居酒屋や飲食店でするものとは違う。財団内のカフェスペースで、紙皿にケーキやこまごまとしたお菓子が添えられて昼休みに行われる。この財団は、そういう類の会に経費を出したがらない。したがって、歓迎会にかかる費用は、毎月職員の給料から引かれている雑費──職員宛ての香典やご祝儀もここから賄われる──から用意された、侘しいものとなる。もちろん私は欠席した。彼はそれを聞いてあからさまに喜んだ。
「へー、やっぱり。僕も一緒だよ。爪弾き者同士」
「一緒じゃない。私は電話番のために残るから」
これはくだらない嘘だった。欠席を申し出た際に、先輩が「まあ、電話対応に残る人も必要だしね」と苦々しい顔をして言ったのが頭に残っていただけだ。
「あー、同じ同じ。僕も電話対応」
「うそ」
彼が電話対応を任されるわけがない。彼が、というより、神秘学者全員が。彼らは財団職員から信用されていない。
私は歓迎会について、出席確認の話が回ってきたからそれに答えただけだけど、彼含む神秘学者たちは歓迎会があることさえ知らされていないはずだ。彼が腕を掴んで引き寄せる。
「ねえ、だったらその日の昼休み遊びに行ってもいい?」
ひっぱられたせいで、互いの体がぶつかる。意外なほど硬い体が、服越しに感じられた。男の体だと思った。そういえば、この子は容姿から受ける印象よりずっと背が高い。今だって、彼の胸辺りに私の額がある。軽々しく腕を抱き寄せてくる仕草も、可愛らしい顔立ちも、彼を幼く見せているのに、この肉体だけはそれに当てはまらないのが奇妙に思えた。
分厚い袖をまくって、彼の手首を掴んだ。骨っぽく硬い。手首の内側に、血管の線が浮き出ている。
「なに?」
「あなたの皮を剥いだら、中に何があるだろうと思って」
どれだけ幼く見せようとしても、肉体までは彼の望むかたちになることはない。それなら体の内側の臓器だって、彼の理想通りにはならないのだろう。私が彼の容貌に感じている、一種の清潔さや幼さは、彼の臓物には微塵もない。当たり前のことだろうけど。
「神秘学者の体は人間と違うのかってこと?」
「そうじゃなくて、私の体の中身も、私の理想通りにはなってないんだろうなと思って」
「なんだ、そんなの当たり前じゃないか!」
そんな風に、明るく肯定できるものなのだろうか? 私も彼も、財団内で働いている全ての人が、見せたいと思っている理想の姿とは別に、グロテスクな臓器を体内に飼っているという事実について。
歓迎会当日の昼休み、結局私はピザをデリバリーした。イタリアントマトと、じゃがマヨコーンの二枚。閉塞的な部署なので、弁当や総菜を買ってくる人はいても、出前を頼む人なんて今までいなかったんじゃないだろうか。約束通り遊びに来た彼が、私以外誰もいない事務所内で、あの営業のオフィスチェアに座ってピザを頬張っている。
「爪弾き者の味がする」
指に着いたチーズを舐め取りながら、彼がよく分からない感想を言った。
「電話が来たらどうしよう」
同じようにピザを咀嚼しながら私が言う。トマトとピザソースでいっぱいになった口で、明瞭な受け答えなど勿論できるわけもない。任せてよ、とやけに自信満々な顔で彼が答える。
「君がしゃべれなさそうだったら、僕が代わりに出てあげるから」
「知ってるの? 受け答えのマニュアル」
「お電話ありがとうございます。こちら財団内本部一階にあります──」私がそんな風に例文をそらんじてみせると、彼はごく当たり前の表情で、少しも恥じることなくこう言った。
「ううん、全然」
ピザを咀嚼する彼の頬は白く膨らんでいて、やはりあの背丈に見合っていない顔立ちに思えた。