双貌

 せつらは大きな紙袋を持って、メフィスト病院を訪れた。
 受付の前を横切って、院長室を通り過ぎ、迷いなく向かった先は、とある病室だった。
 スライド式の白いドアの前に立ち、美しい手でノックをする。
 中から返事はなかった。
 けれど、内側からドアに張り巡らされていた数多の「糸」が、音もなく緩むのをせつらは感じ取った。
 ドアを開け、病室に入る。
 VIP用の個室と考えても明らかに広すぎる部屋の中に、その男は居た。
 夢の中の出来事みたいだ、とせつらは思った。
 それは、目の前の美貌があまりにも現実離れしているためでもあったが、一番の理由は他にあった。
 二つの顔が向かい合う。
 まるで鏡写しのようだった。それほどまでに、彼らは全く同じ顔を有していたのである。
 せつらは微笑んでみせた。男は表情を変えなかった。それで初めて、彼らは鏡写しではなくなった。
「おはよう」
 ベッド脇の椅子に腰掛けながら、せつらが言う。
 寝台の上の、瓜二つの顔をした「私」に向かって。
 
「気分はどう?」
「良く見えるか?」
 〝私〟が答える。苛立っているというより、疲弊しているような声で。
「食事は? 食べた?」
 首を左右に振る。
「何を盛られているか分かったもんじゃない」
「そうだろうと思った」
 そう言うと、せつらは紙袋から様々な物を取り出してはテーブルに並べていった。
 スーパーの惣菜、パックご飯、冷凍食品、シリアル、パン、牛乳、野菜ジュース、ミネラルウォーター、割り箸、使い捨ての紙コップ。
 ざっと見ただけでもこれくらいはある。
「これで食い繋げよ、一週間分はあるからさ」
 〝私〟が頷く。せつらはさっそく、持ってきた品々をあるべき場所にしまい始めた。
 何しろVIP用の個室なのだ。
 一人暮らし用ほどの大きさをした冷蔵庫はあるし、電子レンジも、小さい流しだってある。
 これほどの設備を用意された個室が、滞在費無料というのはほとんどの人にとって信じられないだろう。
 けれど、せつらとこの男にとってはむしろ理解できることだった。
 なにしろ、ここはメフィスト病院であり、ここにいる男は、院長が長年恋焦がれた男なのだから。
 
 始まりは唐突だった。
 朝起きたら、同じ顔をした男が目の前に寝転がっている。
 せんべい布団の上で、せつらは何度も頬をつねった。
 これが夢ではないと確信したのは、目を覚ました瓜二つの男が、空いている方の頬に手を伸ばし指でつまんだ為だった。
 メフィスト病院に身を隠そうという提案を、〝私〟は最初渋っていた。
「なぜわざわざ藪のところに行く」
「だって、お前の存在が知られたら大騒ぎになるだろ」
 もし〝私〟が好きなように出歩いてしまえば、一時間もしないうちに「もう一人の美影身」の噂が新宿中に広まるだろう。
 せつら一人の美貌だけで六百人の観光客が殺し合いを始める街だ。一体どんなことが起きるのか、想像するだけで怖いものがある。
 せんべい屋の奥に隠れていたって、依頼人やアルバイトが何度も出入りするのだから隠し通せるとは思えない。
「それに、木を隠すなら森の中って言うだろ」
 ここで言う森とは、勿論病院の地下でウロウロしているダミーたちのことである。
 それでも彼は不満そうな顔をしてせつらを見ていた。
 自分ではなく、〝僕〟が病院に閉じこもっていればいい、という目である。
 なのでせつらは反論した。
「お前、せんべい屋の商売できる?」
 その言葉が決定打となって、〝私〟はメフィスト病院へ連行されることになった。
 
「あいつはよく来るの?」
「昨日だけで四回は来た」
「うへえ」
 あいつが誰を指しているのか、言われずとも分かっているらしい。
 〝私〟がミネラルウォーターを口に含む。紙コップには移さず、直接だ。
 伏せられた目や、窄められた唇に、〝僕〟は内心「ほお」と感嘆した。
 確かに、あいつがゾッコンになるくらい綺麗な顔だと思ったのである。
 そして同時に、ここまでしてやっているのに一度も礼を言われていないことに気がついた。
 しかし、せつらにとってはどうでもいいことだった。
 元々彼は感謝の言葉にそれほど有り難みを感じない性質であったし、自分と同じ顔をした相手に礼を言われたって嬉しくもないと思っているのかもしれない。
「……暇じゃない?」
 椅子に腰掛けたまま、改めて部屋の中を見渡したせつらはそう言った。
 娯楽になりそうなものが何も無い。
 テレビも無いし、本棚さえ空である。
 本については、どうせ読まないだろうと思ってせつらも持ってこなかった。
 そもそもとして、彼の家にある本はタウンページのみである。
 テレビは、メフィストが運び入れようとしたのをこの男が拒否したのかもしれない。
 彼らしいとも言えるが、それなら何をして暇を潰しているのだろう。
 徘徊老人のように、病院内を彷徨いているのだろうか。
「退屈ではある」
「やっぱり」
「何か、持ってきてやろうか」
 そう提案しつつも、この男が何をお気に召すのかせつらにはさっぱり想像つかなかった。
 俗物的な週刊誌や、クロスワードパズルでも与えればいいのだろうか? いや、そうなるとそれこそ独居老人のような生活になるだろう。
 墨色の瞳がじろりとせつらを見る。
「娯楽を提供すると?」
「うん」
「なら」
 白い手が、するりとせつらの方へ伸ばされる。
 無防備に晒された手のひらに、せつらは一瞬だけ不思議そうに凝視して、一拍置いて「ああ」と納得する。
 何も言わず〝私〟の手を取った。
 そして、無邪気とも言える仕草でベッドの上によじ登る。
 〝僕〟が”私“に馬乗りになる。手は、繋ぎあったままだ。
 鏡のように同じ顔を見下ろしながら、愉しげに問いかける。
「あいつが見てるかもしれないよ」
「別に、今更だろう」
「まあね」
「乗り込んでくるかもしれない」
「羨ましがって?」
 奇妙なことに、途中からどちらが自分の返答であるのか、〝僕〟にはよく分からなくなっていた。
 くすくすという笑い声は、どちらの口から漏れたものだろう。もしくは、両方か。
 二つの影がベッドの上で重なる。
 病室の出入り口には、不可視の糸が何万本と張り巡らされている。
 もし、美しき主治医が今ここへやって来たとしたら、一ミリ以下に切り刻まれた肉片となって、霧のように飛び散るだろう。
 
 二人が交わるのは、これが初めてではなかった。
 〝私〟が身体を得た当日に、既に試していた。
 気が狂いそうだと二人は思った。
 あまりにも気持ち良かったから。
 自分で慰めるよりも、誰かを抱くよりも、誰かに抱かれるよりも、ずっと大きな快楽がそこにあった。
 果てが無いのかとさえ思った。
 この世に存在する一番の快楽とは、自分自身との性行為なのではないかと彼らは疑問に思った。
 
 身支度を終えて、病室を出る前にせつらが言う。
「また来るよ」
「いつ」
「お前が退屈する頃に」
 背後で微かに笑う気配があった。
 帰り道で、院長に出くわさなければいいなとせつらは思った。