目を覚ました時、せつらは霧の中で立ち尽くしていた。
乳白色の、濃い霧である。それがせつらを囲んでいるのだ。
二メートル先さえ見えず、天を仰いでも、空も天井も見当たらない。ここが外なのか、それとも建物の中なのか、それすらも分からなかった。
足元にあるのは、薄桃色をした地面だった。いや、人工の床かもしれない。靴裏から伝わるのは、硬くもなく、けれど柔らかいとも言えない感触だ。この上に直接体を横たえて寝たら、一晩くらいなら体を痛めずに済むかもしれない。そう思わせる柔さをしていた。
全くもって、意味不明な状況だった。周囲を把握したくても、霧に阻まれてそれさえできない。気温はほぼ体温と同じほどで、風は感じられない。耳に届くのは静寂ばかりだ。あの美姫に閉じ込められた空間の方が、まだ親しみやすさはあっただろう。
そんな状況の中で、せつらの目を引くものがあった。
彼の目の前、手を伸ばせばすぐに触れることのできる場所に、一人の男が立っていた。
月輪のような美貌の男だった。長いまつ毛も、整った鼻梁も、淡く閉じられた唇も、申し分ない。じっと見つめているだけで、気が遠くなりそうな美しさであった。
その男を見た瞬間、せつらの顔に驚きが広がった。そして、男の顔にも、同じような表情が現れる。眉の動き、目の輝き、そのどれもが寸分違わずにそっくり同じ形を取った。
(鏡か)
そう思うと同時に、せつらは確かめるように男に向かって手を伸ばした。男も、せつらの方へ手を伸ばす。
伸ばした指の曲げ方、爪の形、皮膚の下の青い静脈さえ、どこもかしこも同じだった。
疑う隙など無かった筈だ。けれど、触れ合う寸前に、二人が同時に動きを止めて、同時に顔を見返したのは、「彼ら」の直感がそうさせたのかもしれない。
息を呑む音が重なった。
「お前」
その声も、一字一句、吐息の余韻ですら同じだった。それが不意に違えたのは、次の瞬間だった。
「<僕>か」
「<私>か」
ああ、なんということだろう。
本来なら、一つの体に収まっているはずの二人の魔人が、今やそれぞれの肉体を得て、この世界に臨界しているというのだ。これを奇跡と呼ぶべきか、それとも悪夢と呼ぶべきか。断定できる者は、この世に一人も居ないだろう。
互いの正体を看破した後、二人は口をつぐんでしまった。
当然だろう。
彼らにとって、目の前の男は談笑するべき相手ではない。口を聞くことさえ無いまま、一生を終えるだろうと思っていた存在なのだ。言いたいことなど、思いつくはずがない。
黙りこくって、しばらく見つめ合っていた二人だった。
その瞳が、不意に輝きを孕んだ。
吸い寄せられるように、二つの白い顔が距離を詰める。一体何をしようとしているのか、分かりきった仕草だった。しかし、止める者は居なかった。ここはそういう世界だった。
「ん」
美しい唇が、重なり合う。ちゅる、という音が鳴ったのは、どちらかの舌が相手の唇をなぞったからだろう。
舌は、それ以上奥に侵入しようとしなかった。唇の合わせ目を、くすぐるように行き交う。小鳥が聖水を啄むような、ささやかな音ばかりが響いていた。
その行為に、性愛は無かった。親しみからなる友愛も無かった。
知的好奇心からなる行為だったと、誰が信じられただろう。
この美しき魔人たちは、「自分の唇に吸いつく」という普通であれば不可能な行為に興味を持ったのである。
一ミリたりとも差異の無い唇。そこに吸い付くのは、一体どのような感情を抱かせるのか。どちらのせつらも、その瞳に目立った変化は現れない。一人は、芒洋とした目で。もう一人は凍てついた湖のような目をしているばかりだ。
いつのまにか、二人は両手を絡め合っていた。
愛し合う恋人のような仕草だったが、そこに恋情は見られない。
二人には、面白くて仕方がなかった。たったいま触れている手指に、自分と全く同じ位置に妖糸が絡み付いているのが。千分の一ミクロン単位の糸を使い分け、絡み付かせる繊細な指は、相手の指に張り巡らされた糸の感触を確かに知覚していた。
淫らな光景だった。美しい顔が、互いの唇を貪り合い、両手を絡め合う。その行為が、新しい知育玩具を与えられた赤子のような心理からなるものだと、納得できる者は居るのだろうか。
どれくらい、そうしていただろう。
二人は、同じタイミングで顔を離した。
美しい唇の間を、名残惜しむかのように透明な糸が繋いでいた。その糸さえ、鏡で映したかのように線対称の形を取った。
二人が同じ方へ顔を向ける。乳白色の霧の向こうから、それ以上に白い影が滲むように現れる。流麗な眉が、そろって嫌悪の形を描いた。
霧の奥からやって来た者。
もはや名前を挙げる必要もないだろう。こんなにも白く輝く影を持つ者は一人しかいない。
ドクター・メフィスト。
白き美の結晶がそこにいた。
メフィストは、あの美しき微笑を浮かべている。普段患者に向けているような、慈しみと献身に満ちた、天使のような笑みとはわずかばかり違う。
美しい、という点だけは同じだったが、瞳に浮かんでいるものは、明らかに別の感情であった。
恍惚。もしくは、劣情と言ってもいい。
たった今、二人の行為を覗き見ながら自慰をしていたと言われても、納得できる顔だった。
寄り添う美しき魔人たちから、一メートル以上は離れた場所でメフィストは立ち止まった。近づけなかった、とも言える。おそらくそれ以上踏み込めば、たちまち不可視の糸が飛んできて、彼の脚を輪切り状にスライスしていただろうから。
「ご両人」
メフィストはどこか芝居がかった声でそう切り出した。二人分の殺意を向けられている最中だとはとても思えない、悠々とした口調である。
「素晴らしいものを見せてもらった。これから数ヶ月は良い夜を過ごせる気がするよ。礼を尽くさねばならないな」
「変態」
そう吐き捨てたのは「僕」のほうだった。「私」の方は、声をかけることすらしたくないのか、冷ややかな目で見るばかりである。
「次の機会があるならば、私も混ぜてもらおう」
罵声に懲りた様子は無い。むしろ粘りを増した目で、二人の間へ視線を寄越している。
メフィストの視線に気づいて、二人のせつらは絡め合っていた手を離した。体を寄せ合うのはとっくにやめていたが、手だけは淡く繋いだままだったのだ。
「ここは何処だ」
そう問いかけたのは「私」の方だった。
「精神世界だ」
それは信じられない言葉だった。
普通、精神世界といえば、記憶や無意識の残骸が、塵のように漂っているはずである。生まれたばかりの赤ん坊でも、ここまで凪いだ空間はしていない。まだ言語を学習していなくとも、言葉として認識できていない誰かしらの声、匂い、味、ささやかな記憶。そういったものが形を得てここにあるはずだ。
「誰の?」
「さてね」
あからさまなとぼけ方だった。三人の間で、凍りつくような冷気が通り過ぎた。しかしそれも一瞬のことだった。メフィストは、首を断ち切ろうと絡み付いていた糸が、ふっと緩められるのを感じた。
メフィストを殺すのであれば、今より有利な状況はこれから先無いだろう。なにせ、二人のせつらに対し、味方も誰もいないメフィストである。
それでも「私」が手を下さなかったのは、この場所から抜け出す術を聞き出せなくなると思ったからだ。
「殺したいなら、殺せばいい」
静かな声でメフィストが告げる。病院の職員たちが聞けば、卒倒するだろう提案である。
「何を企んでいる」
「何も」
メフィストがゆるやかに首を振る。それに合わせて、絹糸のような髪がさざなみを描く。美の結晶、と言っても良い姿だった。
「私が消えた後、君たちがこの世界でアダムとイヴになろうというなら、止めはしない」
酔いしれた目が、二人を射抜く。
ああ、このような美貌がこの世に存在しているのが、おおよそ信じられなかった。まさか、これほどの劣情を目に孕んでいても、微塵も美しさを損なわないのだ。悪魔の名を冠するのに、彼以外の人間は務まらないだろう。
二人のせつらは、無言で顔を見合わせた。そして、諦めたような表情を浮かべてメフィストに向き直る。
「気色悪い」
ぽつりと呟いたのは「僕」の方だった。「私」は天を仰いでいた。メフィストの言葉に呆れたのだろう、と誰もが思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「見ろ」
冷ややかな声が天を指す。「僕」もメフィストもそれに従った。
重たげな霧が、頭上を覆っている。その先にあるものなど、見えるはずもない。そのはずだった。
「あっ」
芒洋とした悲鳴の後に、その霧が一瞬だけ薄れた。「私」が天空に伸ばした数万本もの妖糸が、霧を掻き分けたのだとすぐに分かった。
霧の向こうにあるのは、地面と同じ、薄桃色の壁だった。突起物や、照明の類は見当たらない。ただ、濃淡の加減からして、この天井はどうやらドーム状をしているらしい事が分かった。そして、この壁の向こうから、光が差し込んできていることも判明した。
「なるほどね」
「僕」が呟く。
とりあえずは、この世界を形作る「果て」が存在することだけは分かった。
これは重要なことだった。普通に探索していけば、この精神世界から出られるようなものが見つかるかもしれないが、最終手段として果てをぶち壊そうとすればなんらかの脱出の糸口は見つけ出せそうだった。勿論、後者の方法だと精神の持ち主にかなりの負担がかかるだろうが、これは奥の手というやつだ。
最終手段が見つかっただけでも、この状況はせつら側にとって一気に有利なものになった。
「じゃあ、あとは僕に任せてくれ」
「なに?」
おもむろに何やら張り切った声を上げる「僕」を「私」が怪訝そうな目で睨む。
「このやぶは『私』が目当てだろ。そんなら僕が脱出の方法を探すから、ここは若い二人に任せるとするよ」
両手を揉み合わせながら、やけににこやかな顔でお見合いの仲人のようなことを「僕」が言う。
どう見ても、変態医師を押し付けようという振る舞いである。
その場から一歩、後ろへ下がろうとするせつらの腕を、もう一人のせつらが掴む。寒気のする美貌をたたえた顔に、美しさは損なわないまま鬼のような相が出ている。「僕」が嫌そうに身を捩るが、離してくれる気は無いらしい。
糸で強行突破するという発想は無いようだ。どうせ「私」には敵わないとでも思っているのかもしれない。
「私は、どちらの秋せつらも好きだよ」
不意に、メフィストが声を上げる。穏やかな声だった。慈しみさえ感じられそうである。二人のせつらが同時に振り向くのも当然だった。
「だから、ここに君たちを招き入れた」
しかし、その穏やかさは一瞬しか保たなかった。すぐに、淫靡な光を孕んで二人の魔人をじっと見つめる。肉付きの良い獲物を巣に引き摺り込んだ、捕食者の目をしていた。
考えてみれば当然のことだった。
「私」だけが目当てならば、こんな場所へ自分もろとも運び入れる必要は無い。現実世界の秋せつらの体へ「私」の精神だけが表層に出るよう手を加えればいい。それが一番面倒の無いやり方だろう。実現できるのか、という点においては何も言えないが、それについてはこの方法だって無理難題に近かったはずだ。
実際、魔界医師がどのような手を使ってこの世界に二人を引き摺り込み、二人の人格を分裂させたのか、どちらのせつらもさっぱり想像がつかなかった。
「僕」が抵抗をやめたので「私」は腕を掴むのをやめた。しかし、その代わりというように手を繋ぎ始めた。恋人繋ぎなどでは無い。例えるなら、小学校で二列に並んだ子供達へ「隣の子と手を繋いでください」と言われその通りにするような、そんな他愛の無い繋ぎ方だった。まだ「僕」が逃げるのを疑っているのかもしれない。
せつらは煩そうに、手を繋いだまま肘で片割れをどついた。片割れは無視を決め込んだ。小学校の昼休みのようなやり取りである。
それを微笑ましそうに見ていたメフィストだったが、「では」と言って二人の視線が集まるのを待ってから、勿体ぶった風にこう口にした。
「今回ばかりは、私の手でここから出してあげようと思う」
「どういう風の吹き回しだ?」
「僕」のせつらが言う。いや、「私」だったかもしれない。
「ここであれこれ試されて学習されると、次の機会で早々に逃げられるかもしれない」
「『次』があるのか」
うんざりとした声を「僕」が上げる。わかりきっていたことだが、この男の秋せつらに対する執着は限度というものを知らないのだ。
「次はもっと相応しい場所を選ぶとするよ。今回はテストプレイも兼ねたものだ」
せつらにしてみれば張り倒したくなるような事を言いながら、メフィストは美しい片手を胸元まで上げた。指が組み合わされている。それを鳴らせば、おそらくこの夢から覚めるのだろうと分かった。
しかし、いつまで経ってもそれを行う気配がない。早くしろ、という二人の視線に、メフィストは閉じていた目をうっすらと開けてこう言った。
「別れの挨拶は、いいのかね?」
その言葉に、二人は顔を見合わせた。
「僕」が肩をすくめる。「私」は黙って片割れを見つめた。
ここに来た当初そうであったように、この二人はお互いにかける言葉を知らない。出会う筈がない存在だと思っていたからだ。
奇妙な沈黙が、二人の間に落ちた。気まずさは無かった。二人並んで、何もない空を見上げているような心地がした。
先に沈黙を破ったのは「僕」だった。
「またね」
芒洋とした仕草で片手を上げる。それに対して、相手は目を細めただけだった。どんな感情が浮かんでいるのか、よく分からない表情だ。蔑んでいるのか、懐かしんでいるのか、全く別のものを抱いているのかもしれない。
脱出の合図は、まだ聞こえない。メフィストが満足していないのだ。呆れた末に、せつらはのんびりとした声でこう提案する。
「お別れのキスでも、する?」
ロマンティックさのかけらもない言葉だった。けれど、ここに来て一番初めにしたキスと比べたら、そこに友愛じみたものがあるだけマシなのかもしれない。
細めていた目を戻して、「私」が「僕」を見つめる。黒々とした、底の見えない瞳だった。
「私」が距離を詰めた。「僕」も近づいた。心持ち両手を伸ばして。
白い顔が重なり合う寸前で、何かを弾くような音がした。メフィストが指を鳴らしたのである。
地面が歪む。視界がぼやける。平衡感覚を失った二人の足がもつれ合う。
何故、キスの直前で二人を現実世界に跳ね飛ばしたのか。
あの魔界医師も、自分を差し置いて二人がじゃれあうのはやはり不満を抱いたのかもしれなかった。
それから数時間後、黒い影が院長室を訪れた。
勿論、その影は一人分しかない。元通りの末に「僕」が表層に現れた、いつもの秋せつらである。
文句の一つでも言ってやろうと訪れた彼は、まず机に腰掛けた白磁の顔を、その次に机の上に置かれた奇妙な箱を目にした。
メフィストに近づきながらも、その目は手前に置かれた箱にばかり吸い寄せられる。家庭用の蒸し器にも似た、無骨なガラスで覆われたその中に、ひっそりと佇むものがある。机の前までたどり着いたせつらは、文句を言うより先に、それを指差してこう尋ねた。
「もしかして、これ?」
「そうだ」
左様、とでも言うようにメフィストがどこか重々しく頷く。せつらはかがみ込んで、箱の中に入ったそれ──孵化器の中の卵──をまじまじと見つめた。
なるほど、確かにあの世界は天井がドーム型をしていた。つまりあの世界そのものは──
「こいつが見ていた光景ってことか」
もうすでに孵化直前まで成長しているのか、それとも殆ど細胞同然の姿をしているのかは分からない。けれど、その目で知覚した世界そのままの形を取ってあのような精神世界を作り上げた者の内面を、せつらは想像できそうにない。
まだ、外の世界を知らず、記憶もなく知識もない。温度と湿度が調節された世界で、まどろみながら見上げる景色が、そっくりそのまま精神の形になっている。だから、あんなに凪いだ世界だったのかもしれない。
多分、この子が産まれてしまえば、あのような精神世界はもう再現できないだろう。心のお医者でも無いせつらでも、それくらいのことは分かる。
せつらはため息を吐くと、魔界医師に向き直った。
「ああ言ったけど、もう二度とやるなよ」
「君は惜しくないのかね? また彼に会えるぞ」
膝の上で手を組みあわせ、優雅に微笑みながらメフィストが言う。せつらは真顔のまま首を傾げた。
「私は会いたいよ。二人分の視線に射抜かれる時の恍惚を、君は理解できないからそう言えるんだ」
「げえ」
せつらはそう吐き捨て、うんざりだとばかり両手を広げた。
もう言うことは無いとばかりに背を向けた彼だったが、途中でメフィストを振り返るとこう言った。
「あいつに会ったら聞いといてよ」
「私と名乗る彼に?」
せつらは頷いた。
「お前が僕に聞いたのと、同じことを」
「また会いたくないのか──という問いをだね?」
メフィストがおかしそうに唇を歪める。せつらは答えなかった。黒いコートの裾が、ドアの影に飲み込まれる。
美しき魔人が去った後も、メフィストのくすくす笑いはしばらく続いていた。