薄暗い廃工場の中で、美しい影がに倒れ伏していた。数メートル離れた場所に、血まみれの死体が転がっている。たった今、せつらが倒した男だった。
白い頬を、砂利とガラス片が敷き詰められた床が受け止める。青白い顔に、生命の輝きは見られなかった。この美しい青年の元へ、死神がもうそこまで忍び寄りつつあるのだろう。細い呼吸音が、明日には散る花のように響いていた。
砂と古油の匂いがせつらの鼻をつく。布団の上で大往生とはならないか、と自嘲するように彼は笑った。その拍子に絞られた肺が悲鳴を上げ、血痰混じりの咳をする羽目になった。
それからどれだけの時間が経っただろう。霞み始めたせつらの視界に、輝くような白い影が現れた。
幻覚か、とまず最初に疑ったのは彼らしいかもしれない。どうやらその影が、彼のよく知る医師本人であるらしいのに気がついても、これが自身の作り出した妄想の産物である可能性を彼は捨てきれなかった。あまりにも都合が良すぎたからだ。
せつらの前にかがみ込んだメフィストは、特に表情を変えず汚れた頬に指を這わせた。繊指が触れるのと同時に、せつらが掠れた声を出す。
「メフィ、すと……」
最初の音はほとんど声にならず、空気を吐き出しているのと同じだった。
メフィストはぼろ切れのようになったコートごと、せつらの体を抱き起した。これほどの重傷であれば、その僅かな動作さえ死を早めるだろうに、彼はこの医師に触れられた時から何故か体が軽くなりつつあった。
喉も、息をするだけで痛みを覚えていたのが嘘のように回復していた。それを自覚しながら、美しい唇が「お前」と言う。メフィストがその唇へ耳を寄せる。吐き出された声は、砂嵐のようにざらざらしながらも、美しさを保っていた。
「健康で、長生きしろよ」
緊迫した状況で言われなければ、冗談かと笑ってしまいそうな言葉だった。しかしこの男にとっては、心からの願いだったのだろう。目の前の白い医師に対しての、独りよがりな願いとして。
メフィストはにこりともせずこう言った。
「他に言うことはないのかね」
そう言いながら、指先から針金を伸ばしては、せつらの体内に潜り込ませている。損傷した血管を繋ぎ合わせているに違いない。
やや血色を取り戻したせつらが、どこか夢を見ているような声で喘ぐ。
「もしかして、助かるのか、僕」
「そうらしいな」
メフィストが冗談めかして答える。せつらは数秒間、真面目くさった顔で考え込んだあと
「さっきの言葉は忘れろ」
と言った。
「それはできん。特に、死に瀕した患者の言葉であれば」
白いケープの裾をガラス片の上でなびかせながら、メフィストは想い人を抱き上げて廃工場を後にした。