院長直々に呼び出され、メフィスト病院を訪れたせつらを出迎えたのは、無人の院長室だった。
「あいつ、呼び出しておいてどこ行ったんだ」
黒檀のデスクにも、豪奢なソファーにも、あの白い医師の姿は見当たらない。ぶつくさと言いながら周囲を見渡すせんべい屋は、本人不在と早々に決めつけたために、まさか返事が返ってくるとは思ってもいなかった。
「ここにいるよ、秋くん」
あの美しい声が、せつらの鼓膜を震わせた。
せつらの喉から発せられるものとは明らかに違う、聞いた者の心さえ奪うような妖しげな調べ。囁くように発せられた声は、せつらでなければ一瞬で催眠状態に陥っていてもおかしくはないだろう。
せつらは虫の羽音でも聞いたように顔をしかめると、再度院長室を見渡した。やはり、あの白い貌はどこにも無い。
小型のレコーダーでも部屋に仕掛けているのか。そう疑い始めたせつらの耳に、また美しい声がそろりと届いた。
「ここだよ」
せつらの視線が、院長室のある一点に注がれる。確信的な足取りで彼はそこに近づいた。
黒檀机の目の前でぴたりと足を止めると、身を乗り出して机の向こう側にある椅子の底を覗き込んだ。
そこには、誰も座っていない筈だった。あの美しい院長がそこに座しているならば、せつらがここを訪れた瞬間に、輝かしい美貌が彼の視界に入り込んでいる筈である。しかし、まあ、世の中にはいつだって例外というものが存在するのだ。
せつらの目が、不可思議なものを視界に捉える。
白く丸い、大福のような見た目のもの。
ぬいぐるみほどの大きさをしたそれが、椅子の上に座してせつらを静かに見上げていた。
「秋くん」
“それ”はせつらと目が合うと、どこか嬉しげに目を細めた。
あの倒錯した院長を、ぬいぐるみほどまで縦に縮め、尚且つ顔を大福状にしたかのような、奇怪な生き物。
デフォルメされた目鼻が、どこか無垢にせつらを見つめる。
呆然とその生き物を眺めていたせつらは、しばらくの沈黙の後に、あの芒洋とした声でこう言った。
「お前、随分へちゃむくれになったなあ」
「ひどい言われ様だな」
「当たり前だろ。なんだ、整形に失敗したのか?」
病院のスタッフが聞けば卒倒しそうな言葉である。
整形手術など、ドクター・メフィスト自身が一番必要としていない医療行為に当たるだろう。
しかし言われた本人は、澄ました顔で机の上に大人しく座っている。
椅子の上から移動したらしい。せつらの腰を労ってのことかもしれない。今の「メフィスト」の身長を考えると、椅子に座って対話をすれば、せつらは中腰のままで臨む必要がある。
「君に好かれる努力をしようと思ってな」
「へえ、それで、その格好?」
せつらは無遠慮にじろじろと眺め回す。
確かに、可愛いと言えなくもない。しかし、ぬいぐるみのような見た目をしておいて、自然な動作で瞬きをするものだから少々ぎょっとしそうになる。
大福じみた肌には、一丁前に産毛のようなものまで生えているらしい。しげしげと頬のあたりを眺めていると、妙に楽しげな声がかけられた。
「抱きしめてみるかね」
「なんで」
「したそうな顔をしていたからだ」
せつらは何も言わなかった。そろりと両手を伸ばすと、恐る恐るという風にメフィストを抱きしめ、胸に抱えた。
予想より、ずっと重みのある体だった。綿とは違う、ずっしりとした感触がせつらの腕に与えられる。しかしそれは不快ではなく、犬か猫を抱き上げているかのようだった。
「どうかね……」
こんな姿をしているのに、色香を含んだ声だけは以前と全く同じだ。そこにちぐはぐさを感じながらも、声に誘われるようにせつらは腕の中の生き物へ視線を向ける。
せつらの胸板に押し付けられた頬は、その柔らかさのせいでかなり大げさに潰れていた。それがまた、笑いを誘うようないじらしさを感じられる。
一心にこちらを見上げる大きな目に、流石のせつらも心を動かされたようだ。
「……可愛いな」
その言葉に、メフィストの目が僅かに細められた。
何となく気恥ずかしい気分になって、せつらが誤魔化すように両手に力を込めると、柔らかな感触が五指に伝わってきた。巨大な大福を握っているようであった。
せつらは、奇妙な高揚感が湧き上がりつつあるのを自覚した。それはまるで、幼子がぬいぐるみを前にして抱くような、根源的な衝動だった。
求肥じみた白い頬へ、せつらが顔を寄せる。頬と頬が触れ合った瞬間、しっとりと吸いつくような感触がせつらの身を貫いた。
「秋くん?」
そのまま頬ずりすると、身悶えしたくなるような、なめらかな感触が肌を撫でた。ただ柔らかいだけではない、こちらを押し返す弾力と、ほんのりとした体温まで備わっている。
「秋くん、嬉しいが、少しスキンシップが過ぎるのではないか」
そう言って、メフィストが両手でせつらの胸を押し返した。団子のような拳が、ケープから突き出されている。しかしその力は、ぬいぐるみらしく非力であった。
せつらは抱きしめたまま、メフィストの拳を片手で握った。やはり心地よい弾力が手のひらに伝わってくる。本能のままに揉んでいると、腕の中でメフィストが身を震わせた。
「君に手を握られる日が来るとは……」
どこか恍惚とした声は、せつらの耳を右から左へ通り過ぎていった。
手の中の弾力を味わうのに集中していたためである。あの、女児用のストラップによくあるような、スクイーズと言うのだろうか。アレによく似た触り心地はせつらの心身を確かに癒していた。
せつらはメフィストを抱え直すと、目の高さまで持ち上げた。可愛らしい顔と見つめ合う。心なしか、メフィストの頬は上気しているようだった。
「いいな、お前」
「気に入ってもらえたようで嬉しいよ」
頭の中でどんな算段が行われていたのか、せつらはうんうん頷くと、もう一度抱きしめ直しうっとりとした声でこう言った。
「僕、ペットを飼ってみたかったんだ」
「……ペット?」
それを聞いて、腕の中のメフィストが饅頭じみた頬を歪めたのは、せつらの目には入らなかった。
「ほら、うちって食べ物屋だろ。犬とか猫はダメだし、それに外泊が多いからちゃんと世話もできないしでさ。ペットは諦めてたんだ」
メフィストの返答を待たずに「でも」と熱っぽい声でせつらが続ける。
「お前なら家に一人でも勝手に食べたり飲んだりできるだろうし、トイレの片付けも自分でできるだろ。手のかからないペットとして最高だ。あと、割と可愛いし」
メフィストが何やらもぞもぞと身をよじるので、せつらは一層腕に力を込めて抱きしめた。
「離してくれないか」
やけに冷たい声であったが、せつらは気にしなかった。流石に機嫌を損ねたと思ったのか、取ってつけたような言葉を付け加える。
「その姿なら、毎晩一緒に寝てやるよ」
「ほう」
声は、せつらの頭上からした。
たった今、胸に頭を抱いてやってるはずなのに。
それに疑問を抱いた瞬間、手の中の感触が豹変した。
せつらの手は、柔らかな体ではなく、ケープに包まれた硬い腰を抱いていた。そのうえ、せつらが頬を預けているのは、饅頭のような頭ではなく、これまた硬い胸板になった。
流石のせつらも、状況をすぐに理解した。恐る恐るという風に顔を上げる。妖艶な、輝かしい美貌が、せつらをじっと見下ろしていた。
「毎晩一緒に寝てくれるそうだね」
せつらは無言のまま、手を離し後ずさった。しかしその手をメフィストが掴む。ちょうど先程のじゃれ合いを真似るように。
「変な目で見るな」
「さっきの君よりはましだ」
神が作り出した彫刻のごとき美貌の中で、鬼気めいたものが揺らめいている。せつらは久々に冷や汗が背を伝うのを感じた。
この日、どこにあるかも分からない院長室から、取っ組み合う音が聞こえたという証言が患者の口から聞かされることとなった。