印象的なツイートを見つけて、これによって長年の謎というか、自分の思考に納得できるものを見つけたので書いていきたい。
(※この記事では男やら女やら性やら愛やら恋愛感情やらについて語りますが、一部属性を非難する意図はなく、一人のオタクのコンテンツ語りとして読んでいってください)
このツイートが本当に本当に衝撃で、特に印象に残ったのが
救う男性主人公も救われる美少女もどちらも自分の半身であり分身、自分がもうひとりの自分を救うことで自己肯定にいたる
という部分。
自分は昔から、「男キャラに萌えている男性オタク」を観測するのが好きだったんですよ。
ここで言う「男キャラに萌えている」というのは、シンプルに「○○ってかっけえよな~!」と好意的に見るだけには留まらず「俺も○○に愛されたい・ヒロインみたいに扱われたい」と恋愛対象になりたがってるものを指します。
単に男キャラを好意的に見ているのとはまた違う、昨今の言葉を借りるなら「激重感情」を向けている男性オタクのことです。
古のインターネットにおける男キャラ
昨今は「男とか女にこだわる方がおかしい」風潮のおかげか、キャラの性別にこだわらずフラットに接している人が増えた印象があります。ゲーム実況者なんかも、女キャラへの好きを語った後に男キャラについても同じくらいの熱量で語っている人をよく見かけるし。
古のインターネットを知らない人には信じられないかもしれませんが、「男キャラはどれだけ粗末に扱ってもいい」みたいな空気が当時蔓延しており、例えばゲーム実況中に男キャラを雑に扱ったりわざと敵に殺させたりして笑いをとって、それを視聴者もギャグとして処理する……みたいなのがお決まりでした。その男キャラ自体への悪意は無くともそういうことをすれば安易に笑いを取れる時代というか。
ともかく、そんな風に「男性オタクが男キャラを好意的に見るなんてありえない」という時代のうちから、ほんのわずかですが「男キャラに恋愛感情を向けている男性オタク」は存在していました。「俺も○○みたいな男に彼氏になってほしい。俺がヒロインになりたい」みたいな感情をブログの端なんかにつらつら語っているような感じで。
そしてこういう方は(全員がそうではないのですが)女キャラへの好意もありつつも男キャラへの愛も両立していることも多く、むしろ男キャラをメインに普段愛でているわけではない方からこういう発言がポロッと出てくることが多かった記憶がある。いつもはエロゲレビューを中心にして美少女キャラを愛でてるような感じの人が多かった。
自分はこの頃から「男キャラに萌えている男性オタク」を観測するのが好きでした。そこには物珍しさもあったかもしれませんが、一番は彼らの語る愛情の中に一種の「切実さ」があったからです。うまくは言えないけど、「この男キャラに愛されることで自分は報われる」「救われる」「自分の全てが肯定される」「この男キャラがまるでパズルのピースみたいに合わさって、自分の人生が完成される」とでもいうような、凄絶さががあった気がします。
「何かに狂っているオタクを見ることがオタクは好き」とよく言いますが、まさしくそんな感じで自分は彼らを観測していたと思う。
当時は心無いインターネットの住民に見つかれば珍獣扱いされ、自分としても「変わった性癖の人がいるなあ」と見つけた当初は思ったのですが、「まあ女キャラに恋愛感情を抱く男性オタクがいるんだから、男キャラに恋愛感情を抱く男性オタクもいるだろう」と思い直していた記憶がある。
つまりは女キャラも男キャラも対等に、同じような熱量で愛しているオタクなのだと判断していました。
しかしながら前述した風潮変化により、男も女もフラットな目で見る人が増えていったことで、「あれ、あの男性オタクたちって別に平等な目で男キャラを見ていたわけではないのでは?」と疑問に思うようになりました。
「俺自身が観鈴ちんなんだ」
先に言っておくと「純粋に男キャラを恋愛対象として見ている男性オタク」はここからの語りからは除外しています。単なる恋愛対象とも違う、何かしらの「役割」をそのキャラに背負わせて愛を向けている人だけを対象にしています(話がごっちゃになりそうなので先に書いておく)
ここで最初のツイートに戻るのですが
救う男性主人公も救われる美少女もどちらも自分の半身であり分身、自分がもうひとりの自分を救うことで自己肯定にいたる
この文を読んでようやく自分はピンときたんですけど、彼らは「救済される美少女側」に自己投影していたのかもしれないのか???とようやく思い立ちました。
「救済される美少女としての自分」をうっすら望んでいて、そこに後付けで上記の「美形の男キャラに溺愛されたい」って欲求が付随されているような感じ。
自分はいたいけで可哀想な美少女で、そこに自分を救済してくれる、美しくて魅力にあふれていて誰からも羨まれるような、人生の欠けた部分を全て取り戻してくれるような男性が現れてくれるという、いわゆるシンデレラストーリーのようなものを男キャラに求めていた男性オタクって多分いたんだろうなって。
ここまで「救済される側」の視点に寄っていると、元ツイにあった「救済する自分×救済される自分」という「自己のみで完結する救済」からは逸脱してしまいそうで、引用しておきながら申し訳なくなってきた(救済する側に自己にないものを求め続けるとそれは自己からは逸脱していくので)
しかしながら元ツイの引用などでは似たような思想を持つ方が多く見受けられて嬉しい。
特に「何遍も言ってるが観鈴ちんはタイプの女性とかじゃないんだよ、俺自身なんだよ!」って熱弁してるオタクいてガチで嬉しかったです。
あと引用で「さよならを教えて」がまんまそういう話じゃんって言われてて、ああ確かに……とも思った。
もう15年以上前のエロゲなのでネタバレしてしまうのですが(注意!)、主人公は複数人の美少女たちの幻覚を見ていて、彼女たちはそれぞれに「幼稚園児時代に好きだった子」「小学生時代に好きだった子」「中学生時代に…」という風に主人公にとっての理想の少女像を割り振られており、そこに加えて「異性への恐怖」「家族との不和」のような自身のコンプレックスも彼女らに投影していて、彼女らを愛でることで自己を救済したり、その反対に凌辱することで鬱屈の発散的なことをしているのだけれど、まさしく元ツイにあるような自分×自分の救済だろうなあと思った。
あまりにもとっ散らかりすぎて何を言いたいのか分からなくなってきましたが、こういった嗜好的なものってカテゴリー化することも難しいよなあとも思います。
同じギャルゲーを楽しんでいる者同士でも、「美少女キャラを攻略する主人公に自己投影してドキドキしている男性オタク」「攻略されている美少女キャラに自己投影して主人公にドキドキしている男性オタク」とで分かれていて、しかも当人同士はこの違いを理解していない・意識していないことはままあるだろうし、もしくはその時の気分やメンタルによってどちらの思想にもなれる、というグラデーション状態になってる人もいると思う。
まあはっきり言えるのは、創作物でもない実在するオタクをコンテンツとして楽しむのは最悪という話ですね(それは本当にそう)