「シンデレラケージ」と「シンデレラゲージ」

シンデレラケージ」とは、東方永夜抄の5面道中曲です。

日本のシンデレラを隠す檻は、無理に連れ出そうとしても、絶対に姫は出て来ない。それは篭目の所為である。
しかし、天人の一言で全ての扉が開かれてしまう。
 (『東方永夜抄』 おまけ.txt より)


有名なかごめかごめのメロディから始まり、待ち受ける5面ボスへの期待と、高まっていく戦闘難易度への焦燥感、道中曲でありながらこれから「始まっていく」かのような曲調。全てひっくるめて、プレイヤーの血を沸き立たせるような熱いBGMとなっています。特徴的なのが、現実のトランペットであれば演奏不可能なほどの高音を出す通称「ZUNペット」。これが和ホラー調のメロディの中で独特な高揚感を与えてくれて、ま~~~~いいんですわ……。

そんなシンデレラケージですが「シンデレラージ」と勘違いする方がとても多いです。
引用した文のとおり、シンデレラ(かぐや姫)を閉じ込める檻という意味を知っていれば覚えやすいのですが、やはりたった一文字の違いなためか、あちこちで誤植されているのを見かけます。かくいう私も、最初に曲名を検索した時は「シンデレラージ」と打っていました。

このシンデレラージ、面白い逸話がありまして、シンデレラゲージ単体のニコニコ大百科ページが存在する、という点です。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B8

そうですね~。師匠が言うにはこのくらいですか?…なんて、本当は「シンデレラケージ」じゃないんですか?

そんなことを言いながら、鈴仙ちゃんがシンデレラージらしきものを指さしているイラストが載せられています。もちろん、正式名称である「シンデレラケージ」へのリンクもきちんと載せられてます。
記事の親切さもさることながら、なんとなくクスッとさせられるような、ほっこりしたものがあって個人的にはかなり好きなニコ百記事です。

インターネットという広大な砂漠

私が最初にこの記事へたどり着いたのはキッズの頃だったのですが、その時も同じようになんだか嬉しい気持ちになりました。単にほっこりする、というだけでなく、うまく言えないのですが、満たされたような気持ちになりました。
これは古のインターネットならではの空気だな、と自分は思っていて、今となってはネットは現実世界と地続きになっており、色んな芸能人がSNSでアカウントを持っているし、探せば職場の同僚・クラスの友人だってSNSのどこかにはいるでしょう。そんな風にインターネットをしていない人なんていないレベルにまでネット人口が増えましたが、昔は現実とは切り離された、全く別の世界という側面を持っていました。

昔はとにかく、ネット人口自体が少ない時代でした。また、その少なさから誰かと交流を持つための手段自体も限られていたと思います。Twitterのような「なにかしらを呟いておけばそれを見つけてくれた誰かがいいねやフォローをしてくれて、存在を認知してもらえる」ような受動的なコミュニケーションはほぼ不可能でした。自分から掲示板やチャットルームのような場所に飛び込んで、挨拶をして自己紹介をして、ようやく交流が始まる、という感じ。創作者側の人間であれば、あまりコミュニケーションに力を注がなくても誰かしらに認知してもらえますが、それでもどこかのお絵描きBBSに絵を投稿したり、もしくは個人サイトを立ててそこで創作物を載せる、という部分で自分から動かなければ始まりませんでした。
そんな風にして、こちらから動いていかなければ顔見知りレベルの人間関係さえ築けない場所で、コミュニケーションが苦手な人・もしくは見る専の方にとってインターネットは誰一人自分を知っている人間のいない、孤独な世界をしていたでしょう。もちろんその孤独感を渇望してインターネットを彷徨っていた人もいるでしょうから、これを「可哀想」だの「寂しそう」だの決めつけるのは高慢だと思います。

しかし孤独に不満を持っているか・いないかは別にして、存在を認知してもらえるというのは、なんとなく「クスッ」とさせられるものだと思います。前述したシンデレラージのニコ百がまさにそれで、「こんな風に間違える奴っているよな~。そうそうそこのお前だよ!」と親しげに肩を叩かれたような感覚。広大な砂漠のようなインターネットにおいて、こちらの存在を認めてもらえるということは、なかなかに嬉しいものがあった気がしました。
現代はSNSの発展で、そもそも交流過剰であるような空気もあるので、むしろこういった仕掛けは鬱陶しがられるのかもしれませんが、自分は古のインターネット仕草が感じられて好きです。

余談

東方の原作者であるZUN氏は、プログラミング・作曲・グラフィック・脚本などゲームに関わるものを全て一人で作っており、その多才さから多くの東方ファンを惹きつけてやまないのですが、特に作曲についてはかなりの評価を受けています。

だからこそと言うべきか、「ZUNの音楽は○○の頃が一番だった」「いや最新作の〇面曲が最高傑作だ」というようなファンの間での論争もままあります。30年も続いた一大コンテンツですので、その間でのZUN氏の作曲の仕方が変わることもあるでしょうし、受け手側の感受性の変化、もしくは環境の変化による感じ取り方の変容もあるでしょう。こういった「あの頃はよかった」という声が出てくること自体が、長年愛され続けたコンテンツであるという証明みたいで好きなので、まあやりすぎなければ良いんじゃないかなと個人的には思っています。

その論争の中でめちゃくちゃ面白いな~と思ってるのが、「ZUNは千年幻想郷あたりの会社員やってたことへのストレスでぶっ壊れてそれをゲーム作りに発散してた頃の曲が一番良かった。だからまた会社勤めして欲しい」と主張するファン層がずっと居ること。
ZUN氏は元々タイトーの社員をしており、その合間に同人ゲームを作っていた過去があります(現在は退社済み)
その最中に作られた「千年幻想郷」という曲が長年ZUN最高傑作だとかなりの層から支持されており、「ZUNは千年幻想郷を作った時点で満たされた」と同じ発言を繰り返し続ける謎のファンが某所に長年居ついている、もはや都市伝説のような存在まで作り上げたカルト的人気を誇る曲です。

「第15回東方project人気東方 楽曲部門」(https://toho-vote.info/result15/music/1051.php)の投票コメント一覧を見るだけでもその人気の一端を窺えるので、一部引用させていただくと

ZUNは千年幻想郷を作曲した時点で満たされた…か否かはさだかでありませんが、聴いているこちらはとにかく満たされた気持ちになるのは確かです。 直前の「ヴォヤージュ1969」で高まってきた感情に、ドッと押し寄せてくるかのような重厚な曲。イントロでいつものメロディが入って来たり、ここまでの戦いの集大成で壮大な最終決戦のような気持ちになります。いやまぁ本当のラストバトルはBルートなんですけれど。

 永遠の幻想、集積された理想の世界を限りなく勇壮に描き出しています。来るべき到達点を指し示し、無限の先を表現した音楽なのでしょう。かつては永夜抄が最後の東方とも言われていましたから、幻想郷という一つの宇宙の締めくくるための壮大な旋律なのでしょう。

ZUNは満たされたのだ 千年続く幻想… 作曲したその時点でな

ひたすら壮大で雄大な曲。東方原曲有数の高音圧高音ペットの迫力がすさまじい。彼女の格の違いや歴史の重さを感じさせられる。一目惚れしてからずっと一押し曲

ZUNは千年幻想郷を作曲した時点で満たされた。

という風にしてその崇拝具合を感じられると思います。
カルト並みに崇拝される曲と、それと同じクオリティの曲を作らせるために原作者に労働を強要するという、冗談だと分かっていてもあまりにめちゃくちゃな理論に毎度毎度笑ってしまうのですが、こういう度を越えた熱気を感じられるのも、長年続いたコンテンツだからこそだよなあ、と思いました。